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Column 2011年8月20日

「風立ちぬ・・・」

川邉 剛

 先日、NHKの日曜美術館で保田春彦という彫刻家を知った。
 保田春彦はパリでザッキンに学び、ヨーロッパの都市や建築をモチーフに、鉄を素材にした抽象彫刻で独自の世界を構築してきた。
 イタリアで結婚し40年連れ添った、やはり彫刻家だった愛妻シルヴィアの死後、遺品を整理する中で、保田は彼女のおびただしい素描に目を奪われ、自身もあらためて日本からフランスに渡り裸婦の素描を始めた。その数が2,000枚に達したという。
 77歳である。
 ところが帰国後、突然脳梗塞に襲われ、左半身の自由を奪われる。しかし、それでも保田は制作を止めず、「脳梗塞自画像」などの「闘病シリーズ」が連作される。
 現在81歳。作品は今も描き続けられているという。
 ただ年寄りが絵を描いているから感心しているわけじゃない。
 作品に向う姿勢、思想、探究心。いまどきの作家が喪ってしまった創作への無垢な情熱。そして何よりもその素描が素晴らしい。
 私は、この番組の中で強く胸を打たれた保田の言葉がある。
 人生、過酷な試練があったとしても「・・・すべて風立ちぬ。画を描くのみ。」
 番組の中で、この「風立ちぬ」という言葉が何回か繰り返された。
 
 この言葉に触発されたのかもしれないが、代表作「赤錆の壁がある砦」が世田谷美術館に展示されていることを知り、早速、酷暑の中自転車を走らせ美術館に向った。
 この作品からは、人間が織り成す文化、文明の器としての都市、建築が、中身が消え去った後、廃墟と化しながらも巨大な遺物として美をも内包し存在し続ける意味を抽象化し再構築したものと考える。
 まあ、そんなに難しく考えることもないのだが。

彫刻家、保田春彦の代表作「赤錆の壁がある砦」1
彫刻家、保田春彦の代表作「赤錆の壁がある砦」2

 ところで、世田谷美術館は内井昭蔵さんの設計による。
 内井さんの業績について興味のある方はネットで検索してもらうことにして、内井さんと私との付き合いの一端をお話したい。
 ある時期、内井さんとは仕事の付き合いで頻繁にお会いしていた。内井さんは並外れた美食家であり大食漢だった。そしてゴールデン・リトリバー2頭を飼う大の愛犬家でもあった。
 ある時、その内井さんに誘われ、アリゾナ州フェニックスにある「ビルトモアホテル」に連泊したことがあった。フェニックスは、先日TVニュースで巨大津波のような砂嵐に見舞われた街で、サボテンだらけの砂漠に建設された都市である。
 内井さんは、アメリカの建築家で日本では「帝国ホテル」の設計者として知られる「フランク・ロイド・ライト」の研究家でもあり、「ビルトモア・ホテル」もライトの代表的な建築であった。そして、そこからさほど離れていないところにライトの聖地ともいえる「タリアセン・ウェスト」も見学することができた。
 私が内井さんに対しとりわけ鮮烈な印象を持つひとつの理由は、内井さんが御茶ノ水の「ニコライ堂」に生まれ育った代々の建築家であり聖職者だったという点にある。
 内井さん自身、ガウリイルとの聖名を持つ正教徒であることも旅行先で聞いた。

画家、松本俊介の名作「ニコライ堂」

 私にとって「ニコライ堂」とは、いまだに忘れ得ない理由がある。
 それは、岩手の画家、松本俊介の名作「ニコライ堂」が洲之内コレクションの一点であり、その名品が東京で一番小さい、お世辞にも綺麗とはいえない現代画廊の壁に掛かっていた。その名品を目の前にして、いつも酒を飲みながら朝まで師の洲之内徹と駄弁っていたのだから、私の眼から「ニコライ堂」は焼きついて離れることがない。
 「ニコライ堂」の製作年は1941年頃といわれていて、内井さんは1933年生まれなのだから、松本俊介が「ニコライ堂」を描いていた頃、その「ニコライ堂」の中では小学生の内井さんが遊び回っていたに違いない。
 これは私の中にある密やかな妄想なのだが、その真実性はかなり高い。
 
 こんな因縁話になってしまったのも、保田春彦の「風立ちぬ」という言葉がその原因である。
 堀辰雄の小説の序曲に「風立ちぬ、いざ生きめやも」というポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の詩句が書かれている。その意味するものについて保田がどう捉えているのか分からないが、逝ってしまった愛妻、自身の脳梗塞という病気。そういった過去の出来事一切が「風立ちぬ」であり、保田の場合「ただ画を描くのみ」という覚悟となるのだろう。

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